コラム
2024年6月17日
「見る」と「見ない」の狭間で
先週末、所属する日本TA協会の年次大会に参加しました。会場には、これまでオンラインでしかお会いしたことがなく、何年もお付き合いはあるのに対面でお会いするのは初めて、という方々にお会いすることができました。遠方にいてもオンラインで人と対話することや何かの集まりに手軽にできるようになったことは、コロナを経て得たものの一つだと思います。私もコロナが無ければ、オンラインで参加した講演で見かけた先生に師事を仰ぐことも、海外のTA(交流分析)協会に入会することも、おそらくなかったでしょう。オンラインの普及により私の世界と可能性が広がったのは確かです。
そしてその年次大会で参加したワークショップにて、このような言葉を得ました。
「人は、見えているはずなのに見ていないものがある。
その結果良くないことが起きたり、放置されたりする」
文楽の黒子のように、そこにいると見えているのに、見ないことにするもの。それは身近なものなら、例えば歯が痛いのにそれを無視して歯医者に行くのを先延ばしにしたり、キッチンが汚れているのにそれを見ないふりをしてみたり、そういうことは誰にでも覚えがあることだと思います。ですがそれが社会的なことになると、差別を無視したり、選挙に行ったって何も変わらないと個人の能力を無視したり、環境問題など、多岐に渡りかつ深刻な問題が多く表れます。
そう考えると、「見る」という行動は、ただ「目に入っている」のではなく、「何を見るか/見たいかを取捨選択している」という非常に能動的な行動なのだということが分かります。「見る」ということは、「直面する」「対峙する」「気づく」「目の前にあるものをそうであると受け入れる」などと言い換えることができるでしょう。自分は果たして、何を「見よう」として、何を「見ようとしていない」のか。
とは言え、全てを見ることは無理ですし、全てを見ようとすると気持ちが追いつかなくなります。「見ない」ということは、身を守るための方法でもあるのです。日々を暮らしていくために、「見る」「見ない」をその都度自分で考え、判断することが大切と言えるのではないでしょうか。
最後に、今回のワークショップにて私が一番感動した言葉を記したいと思います。
全部は見れない 解決はできない
見ることはしんどい
でも、見ることでもたらされる利益はきっと、ある
「見る」人、「見える」人、「見ることを諦められない」人はきっととてもしんどい。
でもそれがいつか何かに繋がることはきっとある。そう信じているのです。
記事一覧に戻る